【中学生にもわかる】織田信長の生涯と主要人物を年齢・西暦つきで解説

子育て・教育
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【中学生にもわかる】織田信長の生涯と主要人物を年齢・西暦つきで解説

【中学生にもわかる】織田信長の生涯と主要人物を、年齢・西暦つきで解説

戦国時代の英雄・織田信長。「うつけ者」と呼ばれた若者が、どうやって天下統一に最も近づいたのか。
この記事では、信長の生涯を西暦と信長の年齢つきで追いながら、今川義元・斎藤道三・濃姫・足利義昭・浅井長政・武田勝頼・明智光秀など、主要な周辺人物も少し詳しく紹介します。

1.うつけ者と呼ばれた少年時代

1534年、織田信長は尾張(現在の愛知県)に生まれました。若い頃の信長は、奇抜な服装や行動が多く、周囲から「うつけ者(バカ者)」と呼ばれていました。 しかしこれは、単なる奇行ではなく、古い価値観に縛られない発想の表れだったとも考えられています。

1551年、父・織田信秀が亡くなります(信長17歳)。家中では跡継ぎをめぐる争いが起こりますが、信長はこれを乗り越えて家督を継ぎます。 この時点では、まだ誰も彼が「天下を揺るがす存在」になるとは想像していませんでした。

2.桶狭間の戦いで一躍有名に

1560年、信長は今川義元の大軍を相手に桶狭間の戦いで奇襲を成功させます。兵力差は圧倒的でしたが、信長は大胆な判断で義元本陣を急襲し、義元を討ち取りました。 この勝利は、戦国の常識を覆す出来事であり、信長の名は一気に全国へ知られるようになります。

今川義元とは

今川義元は、駿河・遠江を治める大大名で、当時は「天下に最も近い男」とも呼ばれていました。 信長にとっては巨大な壁でしたが、桶狭間での勝利によって、信長は一気に歴史の表舞台へと躍り出ます。

3.美濃を制し、「天下布武」を掲げる

1567年、信長は美濃(岐阜県)を攻略し、拠点を稲葉山城から改名した岐阜城へ移します。 この頃から有名な印判「天下布武(てんかふぶ)」を使い始めます。これは「武力によって天下を統一する」という強い意思表示でした。

斎藤道三と濃姫

美濃攻略の背景には、信長の正室・濃姫(帰蝶)の存在があります。彼女の父が「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三です。 道三は早くから信長の才能を見抜き、自分の娘を嫁がせて同盟関係を結びました。濃姫自身についての史料は少なく、実像は謎が多いものの、 信長と美濃との結びつきを象徴する人物として語られます。

4.将軍・足利義昭を支え、京都の政治を動かす

1568年、信長は室町幕府最後の将軍となる足利義昭を奉じて上洛し、京都へ入ります。信長は義昭を支えながら、京都の治安回復や政治の立て直しを進めました。

しかし、次第に義昭は信長の勢力拡大を恐れるようになり、各地の大名や寺社勢力と手を結んで信長に対抗しようとします。 1573年、信長は義昭を京都から追放し、室町幕府は事実上の終わりを迎えました(信長39歳)。

足利義昭とは

足利義昭は室町幕府15代将軍です。兄・義輝が殺害された後、各地を転々としながら将軍復帰の機会をうかがっていました。 信長を頼って上洛し、一時は将軍としての地位を取り戻しますが、やがて信長と対立し、追放されることになります。

5.信長の改革と新しい時代づくり

信長は戦いだけでなく、社会や経済の仕組みも大きく変えました。彼は「古い慣習を壊し、新しいルールを作る」ことに積極的でした。

  • 楽市楽座(1570年代):商人に自由な取引を認め、市場の独占権を廃止し、経済を活性化させた。
  • 鉄砲の大量導入(1575年頃):鉄砲隊を組織的に運用し、戦い方そのものを変えた。
  • 城下町の整備:城を中心に町を整え、政治・経済の拠点を作った。
  • キリスト教の保護:宣教師を受け入れ、南蛮貿易を通じて新しい技術や文化を取り入れた。
  • 安土城の建設(1576年開始・信長42歳):豪華で象徴的な城を築き、自らの権威を示した。

これらの改革は、単に戦に強い武将というだけでなく、時代そのものを前に進めようとしたリーダーとしての信長の姿をよく表しています。

6.強敵との戦いと、天下統一への道

信長は各地の有力大名や宗教勢力と戦いながら、着実に勢力を広げていきました。ここでは代表的な敵対勢力と、その人物像を見ていきます。

浅井長政・朝倉義景との戦い(1570〜1573年)

信長の妹・お市の方の夫である浅井長政は、当初は信長と同盟関係にありました。しかし、長政はやがて越前の大名朝倉義景と結び、信長を裏切ります。

信長は一時、挟み撃ちにされて危機に陥りますが、粘り強く戦い続け、最終的には浅井・朝倉両家を滅ぼします(1573年頃、信長39歳)。 この戦いの中で、お市とその娘たち(のちの浅井三姉妹)は信長のもとへ戻されることになります。

武田勝頼との戦い(1575年・長篠の戦い)

甲斐の名門・武田家を継いだ武田勝頼は、騎馬軍団で知られる強力な戦国大名でした。1575年、信長と徳川家康は連合軍を組み、長篠の戦いで武田軍と激突します。

信長は鉄砲隊を多数配置し、武田の騎馬軍団を撃破しました。この戦いは、鉄砲を中心とした新しい戦術が、伝統的な騎馬戦術に勝利した象徴的な戦いとして知られています。

本願寺勢力との戦い(1570〜1580年)

信長は、石山本願寺を中心とする一向一揆勢力とも長期にわたって戦いました。宗教勢力との戦いは、単なる領土争いではなく、信仰や民衆の支持をめぐる対立でもありました。

1580年頃までに、信長は本願寺勢力を屈服させ、畿内での支配をさらに強めていきます。こうして信長は、天下統一に最も近い存在となっていきました。

7.本能寺の変――明智光秀の裏切り

1582年6月2日、信長は京都の本能寺に滞在していました。このとき、家臣の明智光秀が突如として反乱を起こし、本能寺を包囲します。

信長は圧倒的不利な状況の中で戦いますが、最終的には自害し、その生涯を閉じました。享年49。天下統一は目前まで迫っていましたが、信長はその完成を見ることはできませんでした。

明智光秀とは

明智光秀は、信長の有能な家臣の一人で、特に丹波平定などで大きな功績を挙げました。教養も高く、礼儀正しい人物としても知られています。

なぜ光秀が信長を裏切ったのかについては、今もはっきりした答えはありません。「恨み説」「野望説」「黒幕説」などさまざまな説があり、 本能寺の変は日本史最大級のミステリーの一つとなっています。

8.信長の死後――秀吉と家康へつながる流れ

信長の死後、家臣の豊臣秀吉が素早く動き、山崎の戦いで明智光秀を討ちます。その後、秀吉は織田家内部の主導権争いを制し、事実上の天下人となっていきます。

さらに、秀吉の死後には徳川家康が台頭し、関ヶ原の戦い(1600年)を経て江戸幕府を開きます。 こうして、日本は「信長 → 秀吉 → 家康」という流れで、戦国の乱世から統一された時代へと移っていきました。

まとめ:信長は「時代を前に進めた」武将だった

織田信長は、ただ戦に強い武将というだけでなく、古い常識を壊し、新しい時代を切り開こうとした革新的なリーダーでした。

彼の周りには、今川義元、斎藤道三、濃姫、足利義昭、浅井長政、武田勝頼、明智光秀など、歴史を大きく動かした人物たちが集まっていました。 信長の生涯は49年と短いものでしたが、その影響は豊臣秀吉・徳川家康へと受け継がれ、日本の歴史を大きく前へ進めたのです。

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